読み物・歴史
湯築城と河野氏 ― 道後公園に眠る中世の城
湯築城跡は道後公園そのもので、公園は24時間・無料、湯築城資料館は9:00〜17:00・入館無料・月曜休館。伊予を治めた河野氏の本拠として築かれ、秀吉の四国攻めで落城するまでの歴史と、日本100名城に選ばれた城跡の今をまとめました。
訪ね方の早見
湯築城跡は道後公園そのものです。公園は一日中開いていて、資料館などの展示施設も入館は無料です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 道後公園 | 常時開園(24時間)・入園無料 |
| 湯築城資料館などの展示施設 | 9:00〜17:00・入館無料 |
| 展示施設の休館日 | 毎週月曜(祝日のときは翌平日)、12月29日〜1月3日 |
| 日本100名城のスタンプ | 資料館の休館日は、資料館の玄関の外に置かれる |
| 最寄りの電停 | 伊予鉄道の道後公園電停から徒歩約1分 |
| 駐車場 | 西口23台・北口11台、1台30分100円 |
湯築城資料館は、発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士の暮らしを、パネルと出土品で見せています。公園の歩き方は道後公園(湯築城跡)の訪ね方、車で行くときは道後温泉の駐車場ガイドにまとめています。
天守のない城、道後公園
道後温泉のすぐそば、いまは道後公園になっている小高い丘は、かつて中世の城「湯築城(ゆづきじょう)」があった場所です。別名を湯月城といい、天守を持たない梯郭式の平山城でした。堀や土塁が今もよく残り、2002年(平成14年)に国の史跡に指定され、2006年(平成18年)に日本100名城(80番)に選ばれました。
伊予を治めた河野氏の本拠
湯築城は、建武2年(1335年)ごろ、伊予国の守護であった河野通盛の代に築かれたと伝わります。以来およそ250年にわたり、河野氏が伊予支配の本拠とした城でした。
- 伊佐爾波神社がこの丘から現在地へ移されたのも、湯築城を築くためだったと伝わる。
- 河野氏は風早郡河野郷から出た伊予の豪族。源頼朝と結び勢力を伸ばした河野通信が承久の変(1221年)で没落した。
- 弘安の役(1281年)で活躍した河野通有が勢力を回復するなど、浮沈を繰り返した。
- 通盛が伊予国守護に任じられたころ、河野氏は全盛期を迎えている。
城のつくりを丘に読む
江戸時代の『湯築古城図』によれば、城には内堀と外堀がありました。丘陵頂部の「本壇」、北方の「杉の壇」、東方の「中壇」の郭、家臣の居住空間などが構えられていたといいます。散策では、現在の公園の起伏や堀、土塁を手がかりに、丘全体を城として使った構成を考えられます。
落城、そして城の終わり
天正13年(1585年)、四国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻します。湯築城の河野氏は約1ヶ月の籠城の末に降伏し、天正15年(1587年)に城はその役割を終えました。その後、松山城の築城にあたっては、湯築城の瓦などの建材が流用されたことが発掘調査で分かっています。
発掘調査で見えてきた中世
昭和63年(1988年)から12年間の発掘調査によって、溝や土塀の遺構が明らかになりました。輸入陶磁器などの出土品も見つかり、湯築城跡は中世守護の城跡遺跡として重要な場所になっています。
今の道後公園に残るもの
- 現在の道後公園には、復元された武家屋敷や土塀、薬医門がある。
- 明治21年(1888年)に県立道後公園として整備されて以来、桜やツツジの名所として親しまれている。
出典:
最終確認日: 2026年10月23日
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最終確認: 2026年10月