読み物・歴史

湯築城と河野氏 ― 道後公園に眠る中世の城

道後温泉のそば、道後公園の丘にあった中世の城・湯築城。伊予を治めた河野氏の本拠として築かれ、秀吉の四国征伐で落城するまでの歴史と、堀や土塁の残る国史跡の今を、一次資料にもとづいてたどります。

天守のない城、道後公園

道後温泉のすぐそば、いまは緑ゆたかな道後公園となっている小高い丘は、かつて中世の城「湯築城(ゆづきじょう)」があった場所です。別名を湯月城といい、天守を持たない梯郭式の平山城でした。堀や土塁が今もよく残り、国の史跡、そして続日本100名城に選ばれています。湯の町のまんなかに、これだけの中世城郭の跡が残るのは全国的にもめずらしいことです。

伊予を治めた河野氏の本拠

湯築城は、建武2年(1335年)ごろ、伊予国の守護であった河野通盛の代に築かれたと伝わります。以来およそ250年にわたり、河野氏が伊予支配の本拠とした城でした。道後の湯と、この地を治めた河野氏の歴史は分かちがたく結びついており、伊佐爾波神社がこの丘から現在地へ移されたのも、湯築城を築くためだったと伝えられます。

落城、そして城の終わり

戦国の世の末期、天正13年(1585年)、四国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻します。湯築城の河野氏は約1ヶ月の籠城の末に降伏し、天正15年(1587年)に城はその役割を終えました。その後、松山城の築城にあたっては、湯築城の瓦などの建材が流用されたことが、発掘調査によって明らかになっています。城は消えても、その石や瓦は新しい城下町へと受け継がれたのです。

中世がよみがえる公園

現在の道後公園には、発掘調査の成果をもとに復元された武家屋敷や土塀、薬医門があり、無料の湯築城資料館では出土品や城の歴史を知ることができます。明治21年(1888年)に県立道後公園として整備されて以来、桜やツツジの名所としても親しまれてきました。湯めぐりの合間に土塁の上を歩けば、中世の伊予に思いを馳せることができます。

※ 資料館の開館時間・休館日は変わる場合があります。最新の情報は現地・公式情報をご確認ください。

この記事に登場するスポット

出典・参考資料

最終確認: 2026年7月