読み物・歴史

道後温泉の通史 ―『日本書紀』の湯から、坊っちゃん湯まで

日本三古湯に数えられる道後温泉の歴史を、神話・古代の伝承から、聖徳太子の碑文の謎、明治の本館改築、子規と漱石の文学、そして近年の保存修理までを一次資料にもとづいて通してたどります。

神話と古代 ―「日本三古湯」の湯

道後温泉は、有馬温泉(兵庫)・南紀白浜温泉(和歌山)と並んで日本三古湯の一つに数えられる、日本でもっとも古い温泉のひとつです。その名は奈良時代の『万葉集』巻一にすでに見え、『日本書紀』や地元・伊佐爾波神社の社伝には、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇・中大兄皇子(のちの天智天皇)・大海人皇子(のちの天武天皇)など、多くの皇族が湯を訪れたと伝えられています。湯の町のシンボル「振鷺閣(しんろかく)」の名にも残るように、傷を負った一羽の白鷺が湯で癒えたという白鷺伝説も、古くからこの地に語り継がれてきました。

碑文の謎 ― 聖徳太子と伊予湯岡碑

596年、厩戸皇子(聖徳太子)が病気の療養のために道後に滞在したと、『伊予国風土記』の逸文は記します。皇子は伊佐爾波の岡に登って湯と景色を讃え、記念に碑文を遺したと伝わります。これが「伊予湯岡碑」ですが、碑の現物は今日まで発見されておらず、道後温泉最大の謎とされています。碑に記されたとされる文を写した石碑が、いまも椿の湯の南側の緑地に建てられています。

中世 ― 湯築城と湯の町

中世には、伊予国を治めた河野氏がこの一帯に湯築城を築きました。城のあった場所は現在の道後公園として整備され、土塁や堀が往時の姿を今に伝えています。湯の町は城下として、また湯治の地として長く栄えました。

明治の英断 ― 伊佐庭如矢と本館改築

いま道後の象徴となっている道後温泉本館は、1894年(明治27年)に落成した近代和風建築です。改築を主導したのは、道後湯之町の初代町長・伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)でした。巨費を投じる計画には激しい反対運動が起きましたが、伊佐庭は「百年先の道後のために」と決定を貫いたと伝わります。棟梁には城大工の坂本又八郎を起用し、木造三層楼の堂々たる建物が姿を現しました。1899年(明治32年)には、日本で唯一の皇室専用浴室を備えた又新殿(ゆうしんでん)・霊の湯棟が竣工。屋上の塔屋「振鷺閣」からは、今も刻太鼓(ときだいこ)が朝6時・正午・午後6時の1日3回鳴らされ、1996年には「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。

文学の湯 ― 子規と漱石

道後は、近代俳句を革新した正岡子規を生んだ松山の湯でもあります。1895年(明治28年)に松山中学の英語教師として赴任した夏目漱石は、子規とともに本館の湯へ通ったと伝わり、本館3階には「坊っちゃんの間」が残されています。松山での日々を素材にした小説『坊っちゃん』(1905年)に描かれたことから、本館は今も「坊っちゃん湯」の愛称で親しまれています。

保存修理、そして現在

1994年(平成6年)、道後温泉本館は国の重要文化財に指定されました。築120年を超えた本館は、2019年(平成31年)1月から営業を続けながらの保存修理工事に入り、2024年(令和6年)7月11日に全館営業を再開しています。聖徳太子来湯の伝承にちなんで飛鳥時代をイメージした道後温泉別館 飛鳥乃湯泉(2017年開業)、地元の人々に親しまれる椿の湯とあわせ、三つの外湯が今も湯の町の核であり続けています。

※ 各施設の最新の営業時間・入浴料・見学料は、改定される場合があります。詳細は各スポットの詳細ページと公式情報をご確認ください。

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出典・参考資料

最終確認: 2026年7月